ある出会い Part2

 

 

僕が彼女に初めて会ったのは職場の事務室だった。

電報を配達することが仕事だ。社長が誰か新しい人を連れてきた。小柄な女性だった。まともに彼女の顔を見るのが恥ずかしくて顔は下を向いたまま、横目で社長の椅子にちょこんと座っている女性に目を向けた。「ええっ、うそー。むちゃくちゃかわいい」これが彼女を見た第一印象だった。
 それから数日後だったか、土曜日か日曜日の天気のいい日にお昼を事務所の外で弁当を食べようということになって、3人ぐらいがそれぞれ買ってきたり家から持ってきたりした弁当を持って、事務所のすぐ外の目の前に城山の見えるところで食事した。あれはちょっと暖かい日だったと思う。僕は彼女に「大石さん、旦那と別れんの?」と聞いてしまった。ちょっと戸惑った様子だったがすぐに「今、もし旦那が死んでも私独りがいい」と答えた。このエピソードはこの後、10年を越えて付き合っていくうちに、色々と尾鰭がつき、「英さんとは友達でいよう。(愛媛大学の事務の人で)じんちゃんとなら、考えるけど」と言って後から飲み仲間に入った薬師神という人が1番になり、僕は2番になった。「僕の方が古いんじゃけど」と反論すると、「年数じゃないんよ」と彼女は即答し、「まあええわ、本当に好きな人には好きと言えんもんなんよ」と僕が勝手に納得して、その場で大笑いして終わってしまう。こんな雰囲気なんだ、僕たちの付き合いは・・・・・・。  
僕たちの仲間は飲むのが好き。

そこで今まで行った飲み屋で現存する飲み屋、すでに潰れた飲み屋、思い出の飲み屋、人に言えないようなことが起こった飲み屋、と列挙していくときりがないかもしれないが、我が愛する女王様(『何が女王様よ、ははーっと』やすこさんと言う木屋町の妹が端から口を出す。顔はお姉さんに似てかわいいのだが、口がやかましいことがある)との付き合いを語るにはどうしても避けては通れない関門なので少し時間を割いてお読みください。
これらの飲み屋には、それぞれカードがあった。これは僕が暇なときにワープロで印字した絵とか文字を厚紙に貼り、10cm×6cmぐらいの長方形のカードを作り、それを裏返しにして、引いたところに飲みに行くと言うもの。よく何かにつけ僕を怒らしては、機嫌をとるために「それじゃ、どこかにのみ行く?」とか、「そんなこと言うんじゃったら、飲みに連れて行ってもろてあげられてもええよ」とか、到底理解できない会話がまかり通っていた。
まずは居酒屋『楽々亭』。

50歳を越えた夫婦(現実には籍を入れてないらしく二人の姓が違う)がやっているお店だった。もう今は潰れてしまってないが、数ある潰れた店の中でもここだけは存続してほしかった。暖簾をくぐると細長いカウンターに椅子が8席ほど。大相撲の貴闘力に似た顔のマスターが笑顔で出迎えてくれる。年上の女の人と一緒に「いらっしゃい」と言う。ビールを頼み、メニューを見る。


骨付きの鶏肉とか魚を、業務用の焼き機で焼いてくれる。余分な油を落としながら焼いてくれるので、家で焼くように余分な水分が出ず、ただの骨付き鳥の塩焼きでも美味な一品と変身する。
「ホオタレ」とメニュー札にあるので、どんなものかと聞くと、新鮮な鰯の刺身だ。鰯というと大衆魚も大衆魚で、自宅でも食べるのは父親のみ。聞いた手前、いりませんとは言えないのが常識人(ここを読んでいるときの女王様のお言葉:何、常識なんてあったの)。でも頼んで良かった、結構いける。
それと忘れてならないのが、鯛の荒炊き。ここのはめちゃ味が濃いが、それがビールと実に合う。しかしこれを注文すると僕がそれだけに没頭してしまって後の注文を忘れてしまうので、店としても出来るだけ最後に注文してほしいらしかった。 
ここの常連さんも気のいい人ばかりで、いつだったか店の常連と楽々亭の二人と大石さんとで郡中の芋炊きへ行ったことがある。このとき初めて伊予鉄の郡中線で終点まで行った。(横河原線は、大石さんの2番目の妹のところへこれも重信の河原で芋炊きをしに行った時に、終点まで乗った。<それがどうしたんよ、早く話を進めんかね>と女王様。)
この店が借金を抱えて潰れて以来、その後に出来た店に行ったが、鉄板焼の居酒屋はマスターが無愛想なせいかすぐに潰れ、その後に出来た居酒屋「すぎ」は常連客でもっているかもしれないが(平成26年現在跡形も無い(^^))、もう一度行こうとは思わない。 
今も営業を続けているお店で気に入っているのは『すがや』菅さんという大石さんの知り合いがやっている魚料理のお店。カウンターと座敷があり、オープンして数年になるが行くといつもお客さんがたくさんいる。
刺身(その壱。伊勢海老を水槽から網で掬い出してさばく。甘い。頭は最後に味噌汁にしてもらう。
その弐。鮑。肝がとても美味しい。僕の食べている姿を見て、女王様曰く『英さんは美味しいものから食べるんじゃね。鮑の刺身の肝から食べるから』)、焼き物、煮魚、手作りじゃこ天、肉料理(魚専門店で食べるのは邪道かなと思ったが、結構うまい)もいい。
ウニの殻つきをスプーンで食べる。太刀魚の明太鋳込み(明太子を太刀魚の切り身で巻きそれを焼き上げたもの)、あわびの刺身の肝、サザエのつぼ焼き、オコゼのフルコース、アコウの煮物、松茸の焼いたやつ、車えびの塩焼き。ああどれをとっても美味しいものばかり・・・この世に生まれてよかったと思う至福の瞬間である。陶器のビアグラス(こいつで飲むと泡がきめ細かくておいしいのだ。僕の誕生日に陶器のビアグラスをプレゼントしてくれたのはとても嬉しかった。毎日これで晩酌している)で飲む生ビールをのどに通しながら。
お昼も800円で日替わり定食があるが、夜の美味のラインナップにはかなわない。ここも、平成26年現在、焼肉屋に変貌、多分経営者は別人と思われる、二階には、「あんから庵」という店で、マスターの姉の経営する店が続いている。
 『美津乃(みづの)』という、今は僕の家の4軒ほど隣に住んでいる水野さんというマスターがやっていたお店があった。ここで大石さんと電報配達の社長が知り合ったらしい。こんなかわいい人が店にいると知っていれば、僕も行っていただろうが、その当時は家で晩酌するだけだった。このお店がなかったら僕と女王様の出会いもなかっただろうからあまり悪口は言いたくないが、少しぐらいはいいだろう。何かマスターに「人がいないので、しばらく手伝ってくれ」と言われて、代わりができるまでという約束で大石さんは手伝っていたらしい。なかなか代わりができず、いやなエロ話になると、店の外に出て、話が終わるのを待っていたらしい。
そこへ多知川さんが救いの手を差し伸べてくれたとか。その後マスターがしばらく怒ってしまって口も利いてくれなかったとか。誰にでも愛される大石さんのつらいところか。
 ここはカウンターが何かおすし屋を思い出させるつくりで、眼前にあるガラスの容器には本日のネタが入っている。
マスターの本心は料理は出来るだけ手短に済ませて客と飲みたい。大好きなエロ話をしてお客を笑わせ自分も客の酒を飲みたい。何かの団体の会食で予約注文を受けても、出来るだけ料理を前もって作っておいて大皿でばっと出して、とにかくその客の輪に入って私も一杯というタイプ。
近くのワシントンホテルの泊り客が表の偽りの看板を信じ込み、にぎりを注文。店の上の方には確かに鮨を入れていた時期もあったと思しき木製の立派な器はある。しかし長年そこに置きっぱなしと言われている。(大石さんの木屋町の実家、すなわち妹のやす子さんの自宅の近くで、水野さんが店を構えていた頃、実際にぎりも握っていたらしい)にぎりはできないから、手でも握って・・・と常連に言うサブいギャグも出ずに、別のものを注文するしかなかったそのワシントンの客はどこかの雑誌の記者らしく出来上がった魚の大盛りの刺身をカメラに収めていた。連れもなく一人で来たというのに全部食べることは出来ないはず。案の定残して、瀬戸内の海の幸を堪能したかったはずの旅が松山にはあんなお店も存在するのかと疑問を感じて帰途についたはず。
ああ、あれからあの旅の記者は現在坊ちゃん列車が走り、道後温泉駅に着くと、人力車が客を待ち、夏目漱石の「坊ちゃん」を題材にしたからくり時計が30分おきに音楽を奏でて、明治時代にタイムスリップ、水口酒造の道後地ビールが何も知らない観光客を待ち受けている(美味しくはない。「ははっ、名前が悪いわ」と誰かの声が・・・)、松山を再訪してくれただろうか。

 


ここで面白いエピソードを一つ。ここでお手伝いをしている女性で愛ちゃんという若いかわいい人がいた。初めてその人に出会って僕は花屋に花を買いに行ってプレゼントした。それから再度来る時にはいつも入り口の戸を覗いてもう一人のおばさんのお手伝いさんかどうかを確かめて入った。店を選ぶとき「愛ちゃんだったら入ろう。そうじゃなかったら、楽々亭にしよう」と言って皆で覗いておばさんだったので「おばさんじゃ、おばさんじゃ。今日は止めとこ」と楽々亭に直行した。
この話を店の前に駐車していた代行運転の人が一部始終聴いていた。実はこの運転手の奥さんがその問題の『おばさん』だったらしく、後ですっかり酒の肴にされていた。旦那が奥さんに「お前、おばさんじゃあって言われよったぞ」って。この話は何度その後店に行っても繰り返し言われた。
  またある日飲みに行くと時間が早くて、店は開いているものの、誰もいない時があった。まあ入って待とうかっていうことになり、カウンターに座りしばらく待っていたが、帰ってこないのでビールぐらい飲もうぜということになって、以前手伝いをしていた女王様がジョッキを出して注いでいると、帰ってきた。誰がって、もちろんマスターが。しもうた、もうちょっと遅かったらもっと飲んでいたのに。よく電報を飲み屋に配達することがあるが、誰もいないこともある。悪魔が頭上の左側で囁く。「何かつまみ食いしちゃれ」一方、頭上の右側で「勤務中にそんなことしてはだめ、勤務中じゃなくても犯罪よ」と女王様のような綺麗な天使(ははっーと。何、今度は天使だと!!!??? 聞き覚えのある妹の声が・・・・・・)が説得する。普通 天使の言い分が通る。

 


ふぐの調理師免許も持ち、楽々亭とは違う本格派。腕はあるのに努力する気がなくなった。そんなお店に来てくれるのは常連客ばかり。店に手伝いに来る女性に手当たり次第手を出し口説いた女好き。「口説かれても断ったのは私だけ」と女王様は言う。お尻をかたどった木彫りの置物もあり、団子鼻を取り除くと女性器があらわれる。エロ話には事欠かない。そして潰れた。今は僕の家の近くのコンビニで雇われ店長をしている。おまけにそのあとにできた飲み屋が居酒屋『よもだ亭』どんなよもだが店をやっているのかと入ってみたら、あのおばさんの旦那だった。一度行ったきり行っていない。大きな赤い提灯に「よもだ亭」と書かれてある。縦長の提灯で、長さが1m20cmぐらい、幅40cm。大きすぎて半分から下が破れてきたが、しぶとく店は続いている。先日、お昼のランチをワシントンホテルの『銀座』で食べたときに見てみると、さすがにでかい提灯は破れてしまったらしく、代わりに直径30cmぐらいの、赤提灯によもだ亭と書かれ、それが2個店の両側に飾られてあった。(ここも平成26年現在跡形も無い(==))
ワシントンホテルの日本料理『銀座』も捨てがたい。一度5人ぐらいでしゃぶしゃぶを食べに行くと、着物を着たお姉さんが注文を取りに来る。「上を5人前」美味しくて生ビールもすすみ、あっという間に追加。誰が言い出したのか『特上』と。再追加も『特上』に。お会計は58000円。金額を聴くや否やあとの4人は木の葉隠れ。「脱ぎもしないのにサービス料なんかとって」とか何とか言うだけ言って。でもこのワシントンはカード(ポイント1000点で10000円キャッシュバック、2003年10月30日現在730点)を作ったこともあってか、よく昼ごはんを食べに行っている。中華も美味しい。(平成26年現在『銀座』はすし屋に変貌、チャイナテーブルは、朝食会場に変貌、飲み屋街の ひしめく場所柄、宿泊客は外に出て食事という傾向には、歯止めがつかぬということか)

スナック『あかさたな』。

ここでは色々な事があった。あまり大っぴらに出来ないことも多い。この『ある出会いパート2』の読者をどういう風に想定するかで変わってくる。いわゆる女王様を取り囲む少数の飲み仲間だけにするのか、家族も含めた僕の身の回りの人々を想定するのか、あるいはこの話を公表して出版を企んでいるのか。まあ、一番無難な当事者の胸の内に秘めておいた方がいいのではないかと思われる点は伏せておこうかと思う。まあ、それが思い出してもこの先一生忘れられないことではあるのだが・・・・・・。
ひかり天檀ビル4階でエレベーターを降りるとドアが一つ。そこを開けると京塚昌子に似たよく肥えた村上まさこ(同じまさこですとよく言っていた)というママさんが笑顔で迎えてくれる。「えいじく〜ん、いらっしゃーい。ふみちゃんもいらっしゃ〜い」
何が良かったんだろう。やはりママさんの人柄かなあ。取り分けて美人でもない。でも安心する。ここの常連さんがいい人ばかりで顔なじみになった人が多い。今でも町を電報配達していると「今どこに飲みに行きよん」って常連だった女の人に聞かれる。僕があちこち海外旅行に行って買ってきたお土産がたくさんのウイスキーと一緒にガラス戸に並べてある。
ここではカラオケもいろいろ歌った。沢田研二の「勝手にしやがれ」を歌うと本人はとても自分の歌に酔いしれているのに最後の「ああ〜あああ〜あああーあっあああ〜」の最大の盛り上げの部分に入ると皆が、{ああAAAAAアアア、ああーアット}。こう文字で表すといかにも皆が合唱しているようにしか思えないが、実は超調子っぱずれの声で、いかにも早く終わってくれってな具合に奇声を上げるのだ。一度それをやられてから、この歌を歌うときは最後にこれがないと気分が出なくなった。大体このあたりから、僕のけなされる、悪口を言われる快感みたいなものが芽生えてきたのだ。「何ぼ言われても、そうでないのは本人が一番良く知っているけん、構わせん」という面白い日本語も現れてきたのだ。

沢田研二「勝手にしやがれ」
大石さんの数あるBest Hit Merodyの中でも格別なのが、なんと言っても「月がとっても青いから」菅原静子の独特の歌い方をまねして{遠回りすい〜てかあ〜えろ〜}ってやると、それまで酔って寝ていた客まで起き上がって大拍手。そうしてこの歌を聴いた後ママさんがすかさず、知る人ぞ知るはやし言葉を入れる。{せ〜の、お上手、お見事、有線以上、歌手以上、ユ〜ユ〜}このはやし言葉はタイミングといい、文句といい(レコード大賞じゃなく有線なのが味噌)、今まで生きてきて、これほど絶妙なはやし言葉にお目にかかったことがない。その後いろいろなスナックに行って歌が終わるとこれをやったものだ。

 

菅原都々子「月がとっても青いから」

 


よく飲むと大人の話になる。客が大石さんともう一人女の人だけで誰もいないときに乳首が(ママさんも含めて)3人の中で一番ピンクかって比べたことがあったらしい。もし誰か入ってきたら見られるジャン。それは鍵を閉めていたらしいが。
一次であまり飲まなくて食べる専門だったせいか、7時前に『あかさたな』の前に着いて、しばらくママさんが来るのを待っていたこともあった。ある日、ドアに張り紙があって、何か緊急の用で店を休むという 張り紙があった。その日、ママさんが自転車同士でぶつかって、転んで脚を怪我したらしい。それが原因で店を閉めることになろうとは誰も予想だにしなかった。
 

 

運命は恐ろしい。


もう一軒、安いと評判の店が、『あさ乃』ここは70歳を越える女性がやっている店である。ビール中瓶500円、大瓶550円。中瓶は500ml、大瓶は633ml。133mlが50円。明らかに大瓶の方がお得。こんな細かい計算をするなら,家で飲めと言われそうだ。安さで行く人もいる。しかしここで出会った飲み仲間がとても多いから、これから話していこうとするのだ。浅野さんという人が一人でやっている。L字型カウンターがあり、テレビがある。カウンターの端に鉄板がある。これは以前居酒屋をやる前にお好み焼きをやっていたときの名残だという。
この人、以前、道後のホテルで仲居さんをしていたときに、『あかさたな』のママさんと一緒に働いていたらしい。ここの客のメインは地元の客、近くの郵政局の人(ゆうせいさん、郵政さん、優勢さん<誤植ではない。いかにこういった団体さんを贔屓していたかを示すため>とうるさいぐらい言う)、愛媛大学の人(教授から助教授から事務の人まで)、そして単身赴任の会社帰り。
地元の客で一番目立ったのが、なんと言っても満場一致で、反対する人は誰一人いない。眼鏡をかけていつも入ってくる前にべろんべろんに酔っ払っている。飲み屋に入ってくる前に既に酔っている人は世界広しといえど、このおっちゃんぐらいだろう。顔を真っ赤のかにして、しゃべる言葉が日本語なのかどうなのか。自分でギャグらしきものを言って自分で受けている。
ママさんが慣れた会話術で「ひろ兄さん、今日はまだ飲むの」とか、来たと同時に「今日はもう帰る」とか言うたわごとにも、「あ、帰るの、はいはいさよなら」とか言って、うまくあしらう。飲み代は後日まとめて払うらしい。話には聞いていたが、これがツケなのだとはじめて知った。正直言って初めこの親父は何なんだと思って無視をしていた。慣れてくるとどうってことないただの酔客だ。しかし、時々つばが散ってくるのが気になった。でもこの人も今は癌でなくなり、この世にいない。
ここはやはり、たくさんの人と知り合えたのが良かったと思える店だ。井上彰愛媛大学助教授(通称あきらさん)、実田春樹さん(通称はるきさん)、もちろん、薬師神三郎さん。あきらさんとはいろいろ旅行も行ったし、飲みにも行った。今は結婚して出歩かないらしく、ぜんぜん会っていない。はるきさんは顔がみなみこうせつに似ている呑み助だ。初め春木という苗字かと思っていた。

飲み屋の話はこれぐらいにして、これから女王様と行った、数々の旅行を手元にあるアルバムをめくりながら思い出したい。
伊藤君という僕より10歳若い人もいたことも記しておかなければならない。過去形にする事はないのだが、パチンコ大好き人間で,電報配達をしていた。勤務中に車の中で寝ていた。僕も買い物はしていたのであまり人のことは言えた義理ではない。小山さんというNTTを退職して電報配達していた人もいる。既に述べたが、多知川さんというやはりNTTを退職して電報配達の2代目の社長に就任した人もいる。そもそもこの人がいなかったら、僕と大石さんとの出会いもなかったわけで、電報配達所が二番町にあるときにまだこの人が電報の通信課長のときに3階の食堂へ行く途中の階段で出会ってはいたのだ。黒ぶちの眼鏡で、何か真面目そうな、堅物だなと思っていた。その後、電通共済会の電報担当として時々顔を見せるようになってはいた。
古い写真もあり、いつ行ったとか、何年前とか、言うことは気にしないことにしようと思う。今現在も大石さんと付き合っているわけだし、どこそこに行ったときは、こんなことがあって、面白かったとか。そういう思い出話として出るわけだから、順番はどうでもいいわけだ。
東予国民休暇村とか、マイントピア(別子銅山の閉山跡地に出来たテーマパーク)、市倉ファーム。海沿いの旅館で宿泊し、市倉ファームで肉料理を食べ、マイントピアで大石さんが長い滑り台に乗っている。咲く花がとても綺麗で、3人(伊藤君と小山さんを含めた)ともとても楽しそうでいい。夏の五段高原。マイカーの上に天体望遠鏡を積んでいる家族もいた。
ああ、星が綺麗いんだろうなあと思い、その後に起こるハプニングは予想だにしなかった。大石さんと伊藤君が夜、綺麗な満点の星々を眺めようと外に出たときに、用心のいい小山さんが窓の鍵を閉めてしまった。朝早い小山さんがまた窓の鍵を開けるまでは誰も気づかなかった。夏とはいえ、高原の夜風は涼しいだろうに、いや肌寒いだろうに、蚊もたくさんいたことだろうに、あああ、ごちそうさま。その後二人は少しでも寝ようとすぐに布団に飛び込んだ。
1993年7月上旬。北海道旅行。この旅行を伊藤君、大石さんと3人で行くことが多知川さんにばれたときには、地下の食堂に呼び出された。このとき僕が真に感じたのは、「ああこの人も大石さんを愛してるな」晴れて公認で、旅に出かける。
往路は船で神戸へ行き、そこからタクシー(母が以前利用した個人タクシーで次回の利用のために電話番号を聞いておいてくれた)で、高速を通り大阪伊丹空港へ。どこででも寝る伊藤君、空港の椅子で熟睡。伊藤君と大石さんが夫婦で、僕がカメラマンか下宿人か。この名言(迷言)は一生忘れない<怒>。
これから話すエピソードでも同じことが言えるのだが、とにかくハプニングには何かしら前触れがある。それを気にしないか、しつこいぐらい気にして、事前に察知して防ぐか。つい最近雨の日に、合羽を着て出勤するとき今日は寒いから、手袋をしようか、どうしようか。時間がないからいいや。これが運命の分かれ道になった。バイクで3分行った所で、前を走るおばはんのバイクが滑って転んだ。15メートル前だったが、僕もブレーキをかけたが、ロックして転んでしまった。あの時手袋をしていれば、事故にも遭わなかっただろうし、同じ転んでも、軽症で済んだ事だろう。1週間したら、あらかた治りはしたが。でも社会保険で本人が3割負担だから、やはり大きい。大昔は本人は無料だったとか。信じられない。
何で伊藤君と大石さんが夫婦で、僕が下宿人かカメラマンに見えたか。それは二人が申し合わせたようにおそろいの紫のTシャツを着ていたからだ。偶然だと二人は弁明する。
これにも前触れがあった。行く前日、フジ(スーパー)で、3人おそろいのウインドブレーカーを買った。しかしそれを大石さんは着ていなかった。この人は買ってもらっても自分が気に入らなかったら、着ないというところがある。また「どうせ買うんなら、もっとええモン買ってよ」という無言の抵抗もあったと僕は分析している。とにかくこの人にプレゼントするときは、手元から離れてしまうこともあることもあることを念頭に置くべきだ。
コアラのウエストポーチ(オーストラリアのお土産、まあ子供用ではあったが)を買ってきても、近所の子供にあげたらしい。それにしては雨の日電報配達中、同じ様なコアラが道端に落ちていたのはいまだに解明できていないミステリーだ。
この話はビデオを見ながら思い出したことを書き付けている。阿寒湖畔、花菱ホテルに宿泊。混浴の露天風呂で初めて大石さんと混浴した。モチロン、タオルぐるぐる巻き状態で。しかしこの露天風呂ぬるかった。実は故障だったらしい。
翌朝、3人一緒に毬藻(マリモ)を見に行くはずが、「ビデオで撮ってきて。私、後で見るけん」と言って寝ていた。この旅に対する態度は到底理解できない。

そりゃーバスガイドが「ここは団子が美味しい」とか何とか言ったかもしれない。大沼公園で景色も見ずに団子だけ買ってバスに乗り込み、皆の帰りを待つ。昼前に団子を食って昼飯は残す。ガイドの「あまり食べ過ぎないで」という忠告も無視して。
霧の摩周湖。ちょうど僕らが観光している間は霧が晴れて名物の中島が良く見えた。ビデオで大石さん中心に撮っていたら、伊藤君が横から入ってきた。
硫黄山。硫黄のにおいがくさいという二人。硫黄泉で疲れを癒し、ホテルのゲームセンターのパチンコをしたっけ。
小清水原生花園。オホーツクから吹き付ける強い風の音が終始録音されていた。冬なら流氷が見える所だ。すぐ近くの駅には列車が入り込んでくる。偶然の演出である。
キタキツネ牧場。どこかでおみくじを買ってきた女王様、カメラに向かって「愛情運たっぷりのおみくじですよ」と言って笑顔の出血大サービス。
大石富美子という女性を少なからずも好きな人は、老若男女の別なく、この笑顔に好感を持っているのではないか。こう書いている僕は、勿論めろめろである。
キタキツネの毛は生え変わりの時期らしく、テレビ番組「北の国から」で見た、どこまでも続く白銀の雪原を駆け抜けるキタキツネのイメージはなかった。
層雲峡。大雪山国立公園、銀河の滝。滝はナイアガラ、北欧のフィヨルド、ニュージーランド(ここに旅行に行ったときに、たまたま北島で地震があったので大石さんは「関空に行っただけで戻ってくるよ」と確認の電話をいれたらしい。残念でした、北島は最初経由しただけで先に南島へ行ったのです。現地ガイドも余分な心配をかけまいとツアー客には地震の話はしなかった)のミルフォードサウンドを見てきている僕には大したことはない。
バスの移動中、ガイドの声を子守り歌代わりにして寝入る二人。窓際に伊藤君。真ん中に大石さん。通路側に僕。真ん中が大石さんなのは、布団を敷いて寝るときも同じだった。大石さんが寝入って首を僕の方に傾けてくる。僕も肩を彼女の方に寄せる。しかしこの後

世界の七不思議とも言われる不思議な現象が起こる。もう後2cmというところで首がものの見事に向き直る。本当に寝ているのだろうか、この人は。これはどう見ても無意識とは思えない。この焦らしがまた彼女のうまいところなのだ。
小樽運河。オルゴールのたくさんある店。ガラス細工。ボトルシップ(Bottle Ship、瓶の口から部品を入れていって中で船を完成させると言う、中国人も顔負けの細かな芸当)。
有珠山の中に火山の噴火で出来た昭和新山。ここの麓に熊牧場があり、いかにも朝飯抜きといった空腹の熊たちが、客たちの買ったえさをもらおうと待ち構えている。大部分は二本脚で立ち上がり、10mぐらい頭上から人間たちが投げてくるのえさを両前足をあげて、「お〜い、人間さんたちよ。こっちへ投げてくれい。おいらは朝から食ってないんだ。うまく口でキャッチする妙技を見せてやっからよ」
 中には横着なのがいて、ほとんど仰向けに寝そべって、両前足だけ上げて、「おいら、もうたくさん食べちまってよ。まあ投げてくれるものは食べてやっから」
 また檻の中に閉じ込められて、う〜う〜うなってる奴は、「わしゃ〜、もうこんな生活にはうんざりなんだよ。人間の道化でいるなんて」 人間が傍観するとただ凶暴としか見えないが。
そのあとの昭和新山登山も、旅の何たるかを理解していない二人は、ビデオ係に映像撮影を依頼し、下で休んでいた。
函館。ハリストス教会。落ち着いたたたずまいに心が洗われる。
百万ドルの夜景の記念撮影のときに二人が蒸発。意図的だと僕は見ているが、一応夜景に見とれていたということにしよう。
夜、ジンギスカン鍋。肉の追加はなく、3人で食べているとすぐなくなってしまう。こういうときは早い者勝ちとばかり食べていると、「英さ〜ん、その肉まだ焼けてないんじゃな〜い?」と女王様。
このときの僕の食べ方を形容したお言葉、「

肉肉、にく、ニク、(にくいやつ)ニク、野菜
」肉を食べられなかった松山の焼肉を食べ尽くしていると言われる、焼肉愛好会のメンバー二人は夜の札幌を焼肉を求めて徘徊したそ〜な。
大阪から同行した男性添乗員が面白く、パチンコに4人で行って、伊藤君の「鍵穴を押さえて打つと良く入る」というガセネタを信じ込んで本当に実行していた。
札幌大通り公園は色とりどりの花でいっぱい。夏の日差しが心地よく感じる。噴水のきらきら光る光景が見るものに涼感を与える。忘れられない思い出である。最後の最後まで、ベンチで大石さんの上に座るという嫌がらせ行為を見せたのもしゃ〜んとビデオは物語っている。
この夏は電報配達最高の夏で、この後中国へも旅行に行った。
鷲羽山ハイランド。藤恵ちゃん、川口君。初めてラブホテルに泊まった。4人で。僕がうれしそうに肩揉み器を持って大石さんと映っている。旅の開放感がにじみ出ている。もっとも出ていない写真を見つける方が難しいが。 思い出はなんと言っても

バンジージャンプ

。体重の重い藤恵ちゃんが飛ぶときに、平日の月曜日でお客も少なかったのにいつの間にか園内の客が全部ぞろぞろと集まってきて、(==)どうしても飛ばざるを得なかったのである。
とにかく、このバンジーは初めてのものにはとても半端じゃない。この遊園地は山を切り開いて出来たようで、その地形を十二分に生かしている。バンジーは断崖絶壁のところにある。階段自体は30mぐらいの高さだが、絶壁は底なしだ。200m以上はありそうだ。ということは飛ぶ者の心理状態に圧迫感を与える。もしロープが切れて落ちたらどうしよう。大きなエアーの入ったマットがあるから、最悪の場合でもそこに落ちれば安全は確保できる。しかし、突然の突風が吹いて落ちる方向が変わったら、そのときに運悪く今まで一度も切れたことのないロープが、ちょうど寿命で切れたとしたら遊びに来たはずが、天国へと直行だ。
まあ、こういう風に考える人は絶対に飛ばないだろうが・・・。他人が犠牲になるのは構わない。その瞬間を見れたらラッキーだ。などと考えて閑散とした園内から、まるで

キリストの磔
を見るかのごとく、集まってきた。ちょうど
ゴルゴダの丘
だ。すぐに飛んでいれば、どうってことなかったろうが・・・風は過酷な運命を後押しするかのごとく止まない。
ようやく止んだときには、どこからこれだけギャラリーが集まったのか、まるで従業員が遊園地の入り口で、
「さあ、よってらっしゃい、見てらっしゃい。もうすぐ世紀のバンジージャンプの始まりだ。体重の重い若い女性が飛ぶよ。この際焼けのヤンパチ、日痩せのなすびだ。入場料は半額でいいよ」
川口君の2倍ぐらいロープはしなり、上下動、左右動を繰り返し、なかなか止まらなかった。その間悲鳴というより、喜びの雄たけびを上げていたのは50名ぐらいのギャラリーの中飛んだ、当の藤恵ちゃんだった。
飲み仲間は面白い話を聞いては、我々も追体験をしたいと同じところに出かける。あきらさん、はるきさん、と例の二人組はまたこのバンジーをしにいった。
このときは、ローラーブレードを初めて経験できたのが、良かった。
次にアルバムを飾るのが佐田岬灯台。夏の四国最西端の灯台は陽光に輝き、訪れる我々を心地よい涼風で迎えてくれる。川口君、藤恵ちゃん、小山さん夫婦、多知川さん、大石さん、僕。灯台までの道のりを森林浴しながら、歩いていった。ここに来るのは、小学校卒業時に友達3人と来て以来である。ここでの思い出はなんと言っても金沢旅館の頭の直径15cmの伊勢海老を中心とした超豪華なお昼ご飯であろう。決して晩御飯でないところが味噌である。
例によってハプニングには前触れがある。前日の晩御飯が済んで、旅館の人にどこか近くにスナックはないかと聞いたところ、一軒だけあるということで、じゃあそこへ行こうということになった。何気なく歌を歌い、地元の人も交えて、我ら、<

アルコールが入ったらとことん楽しむぞ隊は、ど田舎のスナックを盛り上げに盛り上げた。あれは大石さんが「月がとっても青いから」を歌って、その後すかさず、「あかさたな」のはやし言葉、「せ〜の、お上手お見事、有線以上、歌手以上、ゆ〜、ゆ〜」をやったところ、地元の人が感激して、ビールを持って我々の席にやってきた。

松山から来たことを告げるとまた喜んで、お互い、「飲みなさい、あ、どうも。それじゃあおたくもどうぞ」とそろそろと言っていた切り上げ時間を、大幅にオーバーした。知り合いに金沢旅館という、伊勢海老を食わすお店があるから明日のお昼おいでなさいという口約束をした。酔った手前、気前良くOKした。
次の朝、遅めの朝ごはんを食べてさあぼちぼち出発だ。川口君が伊勢海老、金沢旅館と口癖のように言う。小山さんは「飲んでの席じゃけん、本当かどうかわからへん」と否定的にとると、皆がもし準備してもらっていたら気の毒だから、漁師物語でお土産買ってから電話してみようと言うことになった。電話してみると「はい、ご用意させてもらってます」あのまま帰っていたら、今後この金沢旅館に来た松山の人は「この前来た人で豪勢なお昼を予約して食べに寄らんと帰った人がいたんですよ。松山の人でしたけど」という話を聞かされ続けていたことだろう。
さあ金沢旅館だ。玄関には生きのよい大きな例の直径15cmの伊勢海老がいた。「これは今晩のお客さん用ですか」「いいえ、お宅様用に今朝市場で一番大きなものを仕入れました」それを聞いて大半は顔がほころんだが、このメンバーでお金を出さないといけない方の方々は、多知川さん以外は、内心「げげっ」と心臓の心拍数が上がったに違いない。大石さんは全然気にしなかっただろうか。
この人に教わったことがある。当たり前ではあるが、お金を使いたくなかったら、あるいはなかったら、持っていかないこと。この後話すアメリカロサンゼルス旅行でも、数千円しか持って行かずそれが帰って見てみると残っていたということだから、すごい。僕なら金がなければ初めからどこへも行かないし、行く計画も立てない。これは決して女王様の悪口を言ったのではないから勘違いしないでほしい。
金沢旅館での海の幸の数々。とこぶしの煮付け。魚の刺身。伊勢海老の刺身。その他色々。金額は言うのは野暮なので止めとこう。ちなみに藤恵ちゃんは飾りの伊勢海老を持って帰ってお母さん味噌汁にしてくれと言った。 らしい。一番大きな包丁で切ったが、刃が欠けたらしい。
大石さんのすごいところは、この話をして皆にもう一度佐田岬の金沢旅館に行こうという気を起こさせるところだ。数年後のアルバムを見ると佐田岬がまた出てくる。メンバーこそ違うが。僕と大石さんは必ずいるのがこれまたすごいところだ。<

追体験の大石>といわれている。宿泊が金沢旅館だった。が期待していた直径15cmの伊勢海老はなかった。やはり女王様の「月がとっても青いから」の魔力と言える。
その後アルバムに出てくるのは、梅津寺の海岸でビールを飲みながら花火をしている写真だ。川口君、藤恵ちゃん、大石さん、僕。これは僕が皆を誘った。楽しかった。こういう安上がりの楽しみ方もあるのだ。
道後のつかさビューホテルで忘年会。久しぶりに入る道後の湯はとても気持ちよい。この数年後大学時代のクラブの後輩とホテル茶波溜に泊まり、屋上の温泉に入った。夕食は「すし友」で食べた。
ここは、よく行く道後北代のすし屋で、焼きアナゴの手渡しの熱々のところを頬張ると、口の中で美味しい味を残して解けていく。雲丹の美味いこと、オオトロのとろけること。イクラのプチプチ感。イカの歯ごたえを残して口の中に消えていく感覚。カーッと暑いときに喉を通すビール。とても美味しかったらしく、その後輩と松山の話になると、いつも出てくる。あの焼きアナゴは、いくらが、イカや鯛が。これ以上書くと口の中唾液で充満してしまうので止めにして、興味のある方でお金に余裕のある方は行ってください。
温泉の話が出てきたので、ここで少し話をそれて松山にある温泉?について語ろう。休みの日の夕方とか、休みの日の前日に飲みに行く前に、我ら
松山温泉探索隊は一風呂浴びる。「ゆらら」は塩分の混じった温泉、ゆーとぴあ温泉と鷹ノ子温泉は少し濁ったぬるぬる温泉。キスケの温泉は近代設備のラドン泉。星が岡温泉は透明のスッキリ泉。久谷大橋を越えたところにあるていれぎの湯は、小さいが色々な工夫が凝らしてあり楽しい。大きな木の桶を思わせる丸い湯船に源泉という鉄分の含まれた赤色のお湯。大分の別府の地獄巡りにある、血の池地獄を連想させるが、もちろん適温の42度である。鈍川温泉は山里の雰囲気を漂わせる、川原のぬるぬる泉である。
権現温泉は古くからある、濁りぬるぬる泉で、子供の頃からよく来ていた。昔5円のバナナアイスバーが夏の暑い日の普通のおやつだった頃に、4倍の20円もするミルクアイスバーを権現に行ったらいつも買ってもらっていた。それが楽しみだったのかもしれない。「わー権現か、ミルクアイスじゃ、やった〜」この頃から食べることには関心があった。
アルバムをめくり次に出てくるのは、自分が行ってないところの写真だ。祖谷のかづら橋。「自分が行ってない場所の写真をアルバムに貼って何がうれしい」などとのたまう輩は我々のグループにはとても入れないし、付き合いきれないだろう。実は「
富美子ワールド」なる写真集がある。彼女の笑顔の大特売。たとえ自分が行ってなくとも、大石さんが映っていれば、ネガを借りてでも現像する。もちろん本人の承諾済みであるが。川口君の後姿のヌードが映っている。それに我らが女王様が赤いバスタオルを巻き、彼の腕にぶら下がっている構図。この話を聞いて僕も含めた別のメンバーで同じところへ旅に出たのは言わずもがな。追体験の大石だ。昔、大石家は「スナック大石」といわれていたらしい。旦那が電気屋で、当時高嶺の花だったビデオがあり、エロビデオの上映会があったそうな。「そんじょそこらの飲み屋へ行くのなら、スナック大石じゃで」という噂があったとか、なかったとか。
佐田岬といい、祖谷温泉といい、これから話すロサンゼルスといい、一度訪れた所へもう一度行くという、日本国内だけでなく、アメリカまでも経済効果を与える大石大明神って一体・・・・・・?
倉敷へ川口君、藤恵ちゃん、大石さん、僕で行った写真がある。あまり記憶がないが、外人がいたので僕に話しかけるように言われた記憶がある。Do you know me? 知るわけないじゃん。向こうも知らない日本人から話しかけられたら迷惑だよ。こう見えてもオーストラリアに行って、英語しか通じない夜勤のフロントと会話したんだぞ。
内子のぶどう狩りも行ったなあ。青木君夫婦(当時はまだ夫婦ではなかった)も一緒だった。
四万十川の川下り。日本最後の清流。ゆる〜りと流れる時間・・・目もうつろ。
川口君とその女友達、僕と大石さんで芸北国際と八幡高原へ初めてのスキー。芸北国際は雪が固まっていて滑りにくかった。大石さんは、足を痛めて暖炉の番。八幡高原は雪質がよく、アイススケートのできる僕はきれいに滑れた。スピード感がたまらない。でもちょっと油断して、川口君の言われるまま、レベルの上のコースに行くと、はじめから腰が引けていたせいもあって、30mぐらいお尻で大滑降した。残念ながらビデオはなくカメラ もなく、川口君と僕の脳裏に記憶されているだけである。

南九州、指宿、桜島、開聞岳。鹿児島の黒豚を初めて食べた。

浄土平。会津鶴ヶ城、夏が来れ〜ば思い出す遥かな尾瀬遠い空。龍王峡。霜降の滝。見ざる聞かざる言わざるの日光東照宮。

羽田空港の屋上のBird Eyeから暮れ行く夕日。翌日旅行から帰って面河渓へ行った。よく遊んだ。水の中に足をつけると、とても気持ちいい。
冬の能登半島と古都金沢。山中温泉、「花よし」という居酒屋で贅沢三昧。どんなものを食べたっけ。大将がいくらぐらいのご予算でと言うので僕が一人五千円と言ったのがちょっと悪かった。「わざわざ松山から来てくださったんだから」と言って、日本酒を飲むお猪口をかごの中から選べたのが面白かった。でもこれがきっかけで、多知川さん夫婦がこのお店に再訪している。雪のない兼六園の空気吊りを見て味気ない気分だった。
千里浜なぎさドライブウエイをバスで疾走。巌門という奇岩。狼煙灯台、見付島、軍艦島、秋芳洞で見たような千枚田。
これら旅行の写真の間に「美津乃」での大人数での忘年会風景。一番傑作なのが、僕が大石さんに無理やりキスをしようとしているときに、後ろに伊藤君、前に水野さんが目を剥いて映っている。この忘年会は男同士のキスなんかも映っている。「あかさたな」では色々な被り物、眼鏡。中でも傑作なのが僕が熱唱している横で、伊藤君が真似をして、それが一同の爆笑を誘発している光景。写真を見るだけで歌っている歌がわかる。これは絶対に三善英史の「雨」(この歌は鼻声で歌うのがポイント。川口君とよくデュエットした歌)だ。横に座っているのは顔は見えなくても、伊藤君の友達の室津君に違いない。話が飛んでごめんくさい。

三善英史「雨」

 

 

室津君と言えば、堀江のインド料理を食べに行って、伊藤君や大石さんは残しているのに、僕と彼だけは律儀にきれいに食べていた。その後すぐに潰れたのはいつものパターン。
もんちっち海岸で花火・水泳・焼肉をすることになった。僕は花火と焼肉の材料代を出した。大石さんはいつぞやの残り物の木炭を持ってきた。その前日大石さんが夜勤で僕が午後4時までの勤務のときに、「私水着がないからフジ行って買ってきて」と頼まれた。男の僕に頼むなんて、どこにあるかも知れず、スポーツコーナーの競泳用の水着を買って帰った。とても恥ずかしかった。「これ競泳用じゃん。胸にパットがないし、ハイレグ過ぎてよう着ん。普通の買ってきてよ」というお言葉、「もうよう行かんわ」と逃げ腰の僕に「じゃあ、私行ってくるけん、ちょっとここ見よって」と言い残し、買ってきたのが水色、緑、白の迷彩色。この姿も富美子ワールドにある。
ここからの旅は「あさ乃」で知り合った飲み仲間たちが一緒である。小豆島、寒霞渓、オリンポスの丘。九州熊本の二日市温泉糀屋。湯布院、筋湯、太宰府天満宮。ここで買ってきた「やる気地蔵」を電報配達所の隣の散髪屋のお土産に買ってきてあげた。いまだにテレビの上に飾ってくれている。これぐらい大事にしてくれると、買ってきたほうも嬉しい。近所の子供にあげたはずのコアラのポーチが土砂降りの中涙を流して、「おおい、こんなつもりではるばる海を渡って日本に来たんじゃないよお〜」と自らの運命を嘆き、人がニュージーランドから買ってきたお土産の綺麗な(富美子の)Fの文字のペンダントは一体どこへいったんだろうと、疑心暗鬼になる。
スペースワールド、福岡ドーム。気になる写真がある。僕が何かたぶん切符だろうを無くしたみたいで、道端 でバッグを田舎ものの店開きみたいに広げて探している場面。横には大石さんも座って探してくれている。その横にあきらさんがポケットに手を突っ込んでなにやら笑っている。結局、別のポケットにあったのだが。こういったことが前触れにあったのかもしれない。運命は悪しき方向へと流れていく。スペースワールドでは「タイタン」はじめ絶対に乗るのはお断りの乗り物が多いため、僕はカメラ係に徹した。
福岡ドームの屋上階にワインの飲み放題のところがあって、オフシーズンの球場で草野球チームが試合しているのを横目で見ながらたらふく飲んだ。アルコールは体内の力加減をコントロールできなくする。この後野球選手がバッターボックスに立つピッチングゲームを3セットもやった。力いっぱい投げた。帰りの歩き方が鈍くなった。松山に帰ってもまだ直らないので外科に行くと肋骨にひびがいっていた。またこの旅は往復シーマックスという豪勢なもの。当然指定席である。だから乗るのになんら慌てる必要はない。こう冷静に考えていれば、皆に笑いものにされなくて済んだのだ。例によってハプニングには何らかの前触れがある。港で高浜観光港に着く時間を電話して迎えに来てもらおうとした。その瞬間悪魔が同行の4人に囁いた。「皆が一斉に立つと、ぜったいあいつは受話器を慌てて置いてついてくるぞ」 その通りになった。高浜観光港から新浜町まではとても近い。案の定、乗車拒否された。怒り心頭足でタクシーのドアを閉め、後から乗っている旅の同行者連中、悪魔にそそのかされた面々に,大声で「そんなタクシーに乗るな」と怒鳴った。そりゃ、電話ボックスの外で待っていた人はびっくりしただろうが、一体どういう神経の持ち主なのか。僕が提案したように乗り継ぎで帰ってくれるのが普通ではないか。後から電話があってなんと怒鳴ったか聞いてきやがった。お前らには常識がないのか。僕は道化じゃないと思いはしたが、笑って済ました。人が道化になるのは構わないが、自分がなるのは金輪際いやということか。これは相手の立場になってみると決して笑えないエピソードだ。
その点じんちゃんはそういうところが一切ない。とそのときの気持ちにかえって怒ってはみたものの、「旅の恥は掻き捨て」でまあいいか。さあ、いよいよ初めて大石さんと行く海外旅行だ。ロサンゼルス、ユニバーサルスタジオ。来て来て来て来てサンタモニカ。もちろん二人では行けないので、井上先生、通称あきらさんと3人で行った。英文科の助教授であるが、そんなところをほんの少しも見せないのがいい。安く行こうということで、H.I.S.の個人旅行ツアー。往復の飛行機代と現地での宿泊代、朝のバイキング料理代は含まれている。あとは、すべて自腹。まあ安く行こうと思えば行けるし、盛大に使おうと思えば使える。僕とあきらさんは10年のパスポ−トを既に持っていたので良かったが、大石さんは生まれて初めて行くので、パスポートの申請から、取得まですべて付き合った。申請にはお金やパスポート用の写真はもちろんのこと、戸籍抄本の写しがいる。1、2は問題ないとして、3が問題だった。
またこれが事件の発端になろうとは、誰も知る由もない。大石さんの旦那さんが伊台の出身で,今までこの家族に戸籍抄本の申請をした例がなかったらしく、取得するのに伊台の支所まで行かなくてはならない。車で伊台まで行き、申請した。この帰り交差点を直進していれば何事も起こらなかったのだが、右折したために、幼稚園の女の子に当たってこられた。そこがたまたま、横断歩道だったのが災いの元。足を怪我したらしく、難儀難儀の末、事が済んだ。このことは詳しく述べない。またその必要もなく、これこそプライバシーに関することなので当事者の胸のうちに秘めておく。
そうした事件を乗り越えて、気持ちの切り替えをして、関西国際空港からタイ国際航空に乗り込んだ。フライトはまあまあといったところか。以前アメリカ・カナダのツアー旅行に行ったときの、ANAのビジネスクラスには到底及ばない。綺麗な女性客室乗務員(Stewardessという言葉は看護婦という言葉と同様、使われなくなる傾向にある。ちなみに女性看護士といわれる)、そして、居心地が良く、ゲームつきのシート、飲めど飲めど出てくるアルコール類。これは本当はエコノミークラスだったのが、空席か満席かとにかく、座れないため3人の参加者だった我々に白羽の矢が当たったのだ。しかし、快適と思えた空の旅も、初めてだったことと13時間だったので、時差ぼけを初体験した。普通なら、今は暗いはずなのに、機外に出るとまた明るい。おまけに暑い。しかし空気は乾燥して、日本のような不快感もなかった。とにかく寝るべきときには、酒の力を借りてでも、寝る。これが時差ぼけにならないコツだ。
ロスについて、飛行機を降りるとき、気が付いた。マア、日本人以外の特に中国人、タイ人の座っていた席の下のごみだらけなこと。極めてはなはだしい。これは豊かな証拠らしい。この点日本人なら、あとを掃除する人のことを考えてあまり汚さないところ。
空港に着き税関を通るとき、ツアー客ならさっと通れるところだが、個人ツアーの人はそうは行かない。日本語のある程度話せる税関職員と、何か一言二言会話をしなければならない。あきらさん、大石さん、僕の順番で比較的顔の優しそうな職員のところに並んで待っていた。あきらさん、大石さんと進んでいって、いよいよ僕だと思ったとき、もう一方の税関職員が僕を手招きした。この人眼鏡をかけて、何か怖そうだった。緊張すると声が出づらくなる。何とか判を押してもらったが、入国の時に書く書類を日本に帰るまで、ホチキスで綴じておかなければならない。その綴じ方に問題があった。10年用のパスポートだからページはたくさんある。当然その中の使われていない最初のページ1枚だけに綴じなければいけない。ところが何を勘違いしたのか、査証のページの9ページから30ページまで(30−9=21。全部で48ページまである)を綴じやがった(マアこれをパソコンのキーボードで打っているということはその時間はとても暇で、どんなことも苦にならない。というわけで正確を期するためにも、後々アメリカ大統領に苦言をするためにも[そんなことできるのかよ]引き出しを開けてパスポートを出して調査した)。
これだけの大問題に対して、日米の友好状態に亀裂が入ろうかという瀬戸際に、同行の、優しい税関職員に「カンコウデスカ」とにこやかに出迎えてもらって機嫌の良い二人は、「よっぽど来るなと言いたかったんじゃないの」と言って笑っていた。このエピソードも繰り返し酒の肴にされたところだろう。さあて気を取り直して、タクシーで以前宿泊したことのある「ホテルオークラ」へ直行、チェックインをすまし荷物を置いてHollywoodの街に繰り出した。やはり、個人で来ると気分が違う。
ツアー客がチャイニーズシアターの前で固まって動こうとしないのにかかわらず、我々はそれを道の反対側から傍観している。この優越感は味わったものにしかわからない。有名映画スターの足型、手型の数々。以前きた時に、果たしてもう一度来る時期がこんなに早く来ようと誰が予想したことだろう。「あの〜、予想するのは英さんだけよ。ほかに誰もいないよ」と大石さんが言った様な気が・・・・・・。あきらさんはポスターを買っていた。
地下鉄で本当は宿泊する予定だったルーズベルトホテルへ行った。ここは歴代アメリカ大統領の名を冠しているだけあって落ち着いた感じのホテルで、日本人はいなかった。ここでは第1回アカデミー賞の授賞式が行われた。昔のムービーカメラが、往年の銀幕のスターたちの写真が、さりげなく飾られている。チャップリンのブロンズ像が真ん中に腰掛けているベンチを見つけ、その隣に腰掛け、あなたの数々の名作は今でも僕の心の中に残ってますよと思いながら、写真に納まった。さあて、歩き回って喉も渇いた。そのホテルのバーで昼間からビールを飲んだ。しゃーんと写真に納まってますよ。3人とも美味しそうな笑顔をふりまいている。
Universal studio Hollywood。ターミネーター、Back to the Futureのデロリアン(タイムマシンに改造された車)、アポロ13の乗組員と着陸船。ジュラシックパ−クの最後急降下する乗り物。水の中に突っ込み、ずぶぬれ。でもみんな笑っている。笑っているといえば、僕がジョーズの乗り物で楽しんでいる間、二人は別行動した。その後大石さんが似顔絵を書いてもらったという。笑顔の素敵なしゃーんと目尻の皺まで正確に(!)描いている。僕もほしいといったら、「やだねったら、ヤダネ」と言われたような気が。(そんなわけないだろ。この当時、氷川きよしはまだデビューしてないよ)ジョーズの大きな吊るされた模型の中に頭を突っ込んで悦に入った。
その後サンタモニカの海岸を歩く。海岸沿いの遊園地のジェットコースターを制覇するためだったが、あいにく雨だったせいか、動いていなかった。僕はガイドブックにあったナイキのシューズのアウトレットへ行った。「ここまで来て1足しか買わないの」と言われながらも、計画通り1足買った。女王様がしきりに子供用のかわいい靴を「あれかわいいね」と言っていた。
晩はニュー大谷の鉄板焼きで鉄板を焼いて食べた(そんなわけはない)。ビールはキリンの一番絞りだった。ホテルの部屋の中で例によってどこで撮ったか解らない酔客の絡み写真を取りまくった。大石さんが夜、部屋の窓から綺麗なライトアップを楽しんでいたらしい。翌日聞いた話だ。 バーバリーのセーターを空港で、じんちゃんのお土産に買い、帰路に着いた。
大阪について松山行きの飛行機の時間まで時間があるため、それぞれ別行動をとることになった。大石さんはパーマ屋で髪切りに、明さんは大阪の町を散策に、僕は海遊館に行った。何時にどこで待ち合わせをしようということになって、その時間に僕が帰ってきたら、よく戻れたなあって顔をして笑っていた。この二人に言わせたら、僕は<お世話のいる方>なのだそうだ。
祖谷のかづら橋。追体験の大石は健在だ。今度はあきらさん、はるきさん、大石さん、僕。吊橋を渡らずに反対側から少し入ってカメラに納まった。この写真を撮影する前にこんな会話があったに違いない。僕がラーメンを食べるときに箸で取れるだけ麺を取り、大きな口を開けて食べるけれど、入りきらず、戻す。僕もわざとにそれを意識して大口を開けてラーメンを食べるシーンを演出している。後方であきらさんが笑っている。自分で言うのもおかしいが僕も大人になったなあと思った一幕である。
日本のユニバーサルスタジオ。はるきさんとあきらさんと大石さんと僕。アメリカの方へ行っているせいか、ちょっと物足りなかったがはるきさんは初めてなので、結構楽しんでいたみたいだ。でもあまりに混雑し過ぎる。一つの人気のあるアトラクションに長蛇の列。待つだけで疲れる。この当時はオープンして間もなかったので、仕方がないと言えばそれまで。待ち疲れて入る場所は、日本もアメリカも変わりはない。さてここで問題です。我々4人が骨休めに入った場所はどこでしょう? そんなん、誰でもわかるがな。ノンベ4人と言えば、ビールを飲みにショットバーに入った。ピンポン。
京都の石庭竜安寺。ここは絶対行きたかった所。

昔小学校か中学校のときの国語の教科書にここの石の配列について書いてあった。見る方向によって石の数が異なって見える。すなわち、石が別の石に隠れてしまう。人が多くて移動しにくかったので、さまざまな角度から見ることはできなかったけれども。
暑かったし、喉も乾いてきたので、京都歴史街道「きぬかけの道」のお座敷のある涼しい所で、高価な湯上げ豆腐を食べた。周りを見渡すと、お上品な人ばかりだった。マア飲めて、腹ごなしができればどこでも良かった。
金閣鹿苑寺も行ったが、ここは修学旅行のメッカだけあって中学生、高校生が多かった。清水の舞台から飛び降りはしなかったが、記念写真を撮った。
2002年5月18、19日。京都と滋賀県の琵琶湖湖畔雄琴温泉、雄琴国際ホテル「きくのや」に泊まった。場所が日本一大きな湖のそばなのはいいが、もう一つ大きなソープビルがでーんと建っていた。
長崎のハウステンボスへはじんちゃんと僕と大石さん3人で。テーマパークの真ん中に大きな気球があって、乗りたかったが、比較的閑散とした園内も、ここだけ並んでいたのでやめた。
孔子廟、故宮博物院、中国歴史博物館。江戸の鎖国の時代も貿易を認められた場所柄、こういった博物館も存在するのだと思った。
沖縄へは季節外れの2003年1月27、28日。雨風の最悪の状態の中、首里城、万座ビーチ、沖縄美ら海(ちゅらうみ)水族館へ行った。首里城公園での強風の中、お気に入りだったじんちゃんのプレゼントの折りたたみ傘が、折れて使い物にならなくなった。ボタン一つで開閉できる代物で気に入っていたのに残念だ。沖縄そばも泡盛もビールも豚の角煮も美味しくはなかった。

ホテルは僕がワシントンカードを持っているからというのでわざわざ沖縄ワシントンホテルにしたのに、肝心のワシントンカードを持って行ってなかった。空港の手荷物検査で中を開けなければならなくなったときの場合を考えて、見られていけないものや、必要のないものは分けて家に置いて来たのだ。ああ、かなりのポイントになったであろうに。 以上長々と述べてきたが、この話は終わりではない。現に今も大石さんとは仲のいい友達であり、これからを末永い付き合いをしていきたいと思っているからだ。当然、時が来ればこの話の続きも書くだろう。ただもっと早くこの人に会っていればといつも思う。ある出会いは人の思惑とは決して違った時期に起こるものだ。でも、素敵な出会いは時期にかかわらず、いつまでも継続できる。運命の出会いと呼べるよう、いつまでも大切にしていきたいものである。                 
未完

 


大石富美子カラオケメロディ

大田裕美「9月の雨」「木綿のハンカチーフ」

 

 


奥村チヨ「恋の奴隷」「終着駅」

 

 


菅原都々子「月がとっても青いから」

久保田早紀「異邦人」

テレサテン「つぐない」「別れの予感」「愛人」

 香西かおり「流恋草」

中村美津子「河内おとこ節」

川中美幸「二輪草」

ある出会い

  そう、あれは、僕が小学校2年生の夏休みのことでした。町内で備中島(びちゅうじま)へ海水浴に行ったのです。備中島は三砂(みさ)港から、フェリーで1時間ぐらいのところにある島で、蜜柑の段々畑が美しく、真夏のかんかん照りの太陽の恵みをいっぱいに受けていました。 フェリーで備中島に着いた時、一瞬眼に飛び込む風景。青く澄んだ海。ぎんぎら太陽に照りつけられた海面が、風もない穏やかな波間にそこかしこにダイヤモンドのような輝き。これが春だと、太陽の光はもっと滑らかで、海面にゆらゆらと反射する光に見入っていると、いつの間にか夢うつつの状態になり、あたりののどかな風景がおぼろげに霞んできます。 僕の名は清水秀治。この頃の僕は、全然泳げませんでした。だから、文字通りの海水浴です。でも、かなづちにありがちの、いわゆる水恐怖症ではありません。事実、潜水は得意(?)でした。水に潜っては、息が苦しくなったら、海面に顔を出して空気を肺に送り込むという、単純動作に飽きた僕は水から上がり服を着て、皆が上がってくるのを、心地よい涼風に吹かれながら、海の家という縁台に寝そべって待っていました。家なら、扇風機があって、その人工の風を浴びているのが当たり前。でも、こうして自然の風に身を任せていると、時折、チリンチリンと心地よい音色を立てる、風鈴の音色が子守唄のように聞こえて、しばし夢の中。 しばらくして、女の子が上がってきました。可愛い子でした。その子がバスタオルを巻いて着替えに入りました。僕は寝たまま見ていました。その子がバスタオルを巻いたまま、水着を取り去り、何を思ったのか、僕の頭のところにバスタオルの下のところを持って来たのです。3秒ぐらいだったか、そのまま彼女は動かなかったんです。当然、裸の中身が丸見えでした。僕は、カーッとなって赤くなっていく顔を隠すのに必死でした。 やがて、皆が上がってきて、出発の準備ができ、フェリー乗り場まで、ゆっくりと真夏の島の散策を始めました。蝉の鳴く声。皆が、先を争うように駆け抜けていく中、僕は一人、この雰囲気を身体で味わいたいと、ゆっくりと港の方へ歩いていきました。両側には松の並木がずっと続いている、散策の道。しばらくして、誰か僕の横に並び、僕の手を握ってくるのです。誰だろうと思いながら見ると、何と、あの縁台であったあの子でした。僕は、何か体中が燃えてるような状態でした。終始無言のまま、ずっと、まっすぐ続く道のりを歩いてゆきました。永遠に続いて欲しいと思った、それが率直な感情。これが僕の初恋でした。後で、夏休み後、僕の学校に転向してきて、同じクラスになりました。名前は小藤幸子。 実を言いますと、これより前に、小学校一年のときクラスに神下雪子という女の子がいて、僕の隣の席でした。この子が、僕が女の子と意識した最初の人でした。 いつのことだったでしょう、僕は彼女に「手を出して」と言いました。彼女が素直に手を出したところをすかさず、チュッとキスをしました。その後の彼女の様子は全く記憶にありません。恐らく小さいながらも何か熱いものがこみ上げてきたのでしょうね。意識が遠のくぐらいに。 同じ先生で、1年生の時に、音声学Tって試験があって、2時間試験時間があるところを、30分で見直しも含めて、出来てたの、そこを誰かが、立ち上がって答案を提出したもんだから、よし僕もって悪くて、95点の答案を提出したの。当然これも成績は優。後でそのこと話す機会があって話したら、「あ、あれね、問題がわからないから放棄したんだよ」って言われた。先生に後から僕の答案について聞いたら、1問だけ間違ってたって話だった。これは大学時代の英文法の試験のある日の前の晩に始まる。寒くてコタツに入りながら、試験勉強の最終段階に入ろうとしている。時刻は午前2時。その日の試験は1時間目の英文法の試験のみ。徹夜して、試験受けて、後で10時ぐらいから、下宿に帰って、爆睡すればいいと思ってた。しかし知らず知らず睡魔が。目覚めると試験はもう始まってる時間。大急ぎで学校へ。優等生だった僕は、先生に一言断りを入れて、2時間ある試験時間の30分遅れで試験を開始した。現行英文法の部分が80%、後の20%がチョムスキーの変形文法(これは、高校時代に習った現行文法の例外をも含めて、規則化したもので、本来なら、大学院で深く研究する分野)、明け方眠くなったのが、ちょうど、その「変形文法」の部分。英文法を数式化して表す、画期的なもの。30分の時間を残して変形文法の部分はちんぷんかんぷんだから、放棄して、睡眠をとるため、試験用紙を提出して、帰る。これでも点数は80点。当然、成績は優。皆にうらやましがられた。


 

◆ ミニチュアコレクション ◆


 


 

 

 

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